今日もわたしらしく、あの頃のように。

「やりたいことが分からない。」「好きなことが分からない。」よく耳にする言葉。わたし自身、26年の人生の中で、何度口にしただろう。



きっとそれって、実は、分からないのではなく、自分の中にある「本当はやりたいこと」「本当は好きなこと」にフタがされている状態なんだと思う。



そのフタは、「世間の目」「友達の目」「家族の目」など、周りからどう思われるかを考える度に重く、深く、わたしたちに容赦なくのししかかる。



「好き」が分からなく、どうしたらいいか分からない。そう感じているときは、「子どもの頃、何に熱中していたの?」そう自分に問いかけてみるといいのかもしれない。



子どもって、自分の好奇心にひたすらに真っ直ぐ。なんの前触れもなく全力で走り出すし、奇妙な声で叫ぶし、いきなりカッコよく変身したりする。



「自分のしたいこと」に真っ直ぐで、「他の人にどう思われるか」なんて気にしていない。きっと、そんなこと考える以前に体が動いちゃってる。



わたしたちは成長をするに従い、世間のルールを丁寧に教えられる。

男の子は青、女の子はピンク。
男の子はズボン、女の子はスカート。
メイクは女の子だけがやること。
おままごとを男の子がやるのは変。
男の子は男の子同士で遊ぶべき。



これは、わたしが植え付けられてきた教えのほんの一部。オトナたちは何の悪気もなく、彼らの〝正しい〟をわたしに押し付けた。そして、そんなオトナから教えを受けた他の子どもたちも、世間の〝正しい〟をわたしに押し付けた。



わたしは昔から世間が言う〝女の子の遊び〟が好きだった。ままごとが好きだったし、手帳の見せ合いっこも好きだったし、お姉ちゃんのメイク道具でいつも遊んでいた。


保育園にいたころの夢は「キューティーハニーになる」だった。



しかしいつからか、自分のやることに、幼いながらも罪悪感を覚えていった。



心無い言葉をかけられたことなんて、学生時代に何度あったことか。




でも、決して〝男の子の遊び〟が嫌いだったわけではない。

遊戯王、デュエルマスターズ、ベイブレードなどにも熱中していた。外を駆け回ることも大好きだった。「趣味は崖登りです」そんな時期もあった。頭から落ちてケガをして家に帰ってはケガしたことに怒られる。そんなの日常茶飯事だった。


男の子の自分と、女の子の自分が、確かに自分の中に共存していた。




しかし、「幼稚園」という名の小さな社会の一員になってからは、女の子の部分を最小限にしていった。それは「周りの目」を気にしていたから。




幼い頃、お母さんとレンタルビデオ屋さんに行った時のことを、今でも覚えている。




目の前には大好きなセーラームーンのビデオがたくさんあるのに、手を伸ばせない。それは、同じ年代の男の子たちがすぐ近くにいたから。




男の子のわたしがセーラームーンを手に取るという、社会のルールに反する行動に、罪悪感を抱いていた。




わたしは社会が勝手に決めたルールに従順に従っていた。そんなルールに添い、〝正しく〟生きるなかで、自分が本当にしたいことから離れて行っていたことに、成長した今、気がつく。



今、わたしは、幼い頃のわたしを取り戻しつつある。わたしの中に眠る、あの頃の自分を笑顔にする為、日々を生きている。



今を生きるわたしは、幼い頃のわたしのように、「好き」にひたすらに真っ直ぐ、日々を楽しんでいる。やっぱりまだ、人の目を気にしちゃうこともあるけど、自分の心にに素直に生きるのは、心地が良い。



世間が決めたルールと戦いながらも、自分を強く持ち、自分らしく生きている感覚を確かに感じる。そんなわたしは、悪と戦い、カッコよく、そして強く生きる、わたしの憧れだったキューティーハニーのようになれているのかもしれない。



・・・


現在のわたしと、幼い頃のわたしの背中が目に映る。



ふたりは楽しそうに手を繋ぎながら、夕陽に向かって、川沿いの道を歩いている。わたしが温かい眼差しで、隣を歩く幼きわたしにこう言ってるの。



「やったね!叶ったよ、保育園の頃の夢!」




たすく。

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